開放あるいは解放ということ。

雨宮まみさんが「東京」ということについて、8/15のエントリで書いていたので、それに触発されて書いてみる。

僕らはCD屋や書店に行けば映像作品や音楽作品、或いは書籍を手にすることができる。
それらはいわばその作品の作者が手塩にかけて編集し、一つの作品として、作者のエッセンスが詰め込められている。

だけど最近、僕は松江哲明監督の作品を、「上映」と「DVD」で鑑賞して、同一の作品であるにもかかわらず、そこから受ける印象の違いを感じた。

それは吉田アミさんの「サマースプリング」のトークイベント&ライブの時にも感じたんだけど、最近になって顕著に感じるようになった。

閉じこめられた作品というのは、確かにそこに詰め込まれているものが多分にあるし、それはそれで非常に面白いんだけど、それだけじゃ決して作品の評価は下せない、ということに、今更ながらにはっきり気づいたことに忸怩たる思いを感じる。

思えば、僕がこっちに出てくる前に感じていた閉塞感はそういうものだったんじゃないか。
閉じこめられた作品にのみしか触れられなかったあの頃に感じていた思いと、今、上映会やトークイベントが豊富にある「東京」に出向くようになった頃の思いは全く異なる。「東京」には自由を感じる、というのは、「開かれた作品」を見るようになったからじゃないか、とそう思うのだ。

映像作品であればスクリーンで見る事ができる、音楽であればライブに行ける、書籍や絵であれば著者、作者の思いを聞くことができる、或いはそれらについて語り合うことができる、そういう環境に僕は「自由」を感じる。

パッケージ化された製品だけじゃなくて、もっと生々しいモノを感じる事ができると言うこと。
あるいはそのパッケージ化された製品から感じられるモノを、様々な人と語り合うことによって、それぞれの人の考えや思いに触れていくこと。そういうのって例えば文系、理系というくくりに問わず、凄く大事なんじゃないかと思う。

僕らの「生きている」世界に、パッケージのような、タグや、バーコードや、生産ラインなんてモノは存在しない。
そんなことに今更ながら、改めて気づかされる。