見知った顔同士で幻想自我を共有していればいいのか。

否。人間関係においてその中の「個」としての立場は常に変動し、ある時は語り手、ある時は聞き手となりそこから生じる葛藤や思考のストリームこそが本質であり、気づけば周りが見知った奴らの馴れ合いばかり、なんて言うのは最悪なケースだ。何度も言うが水は止まれば澱む、そして腐る。「同志」というのは「利害の一致」ではない。利害の一致の人間関係なんてもろすぎる。利が無くなれば散っていく。そんなことはいやというほど経験している人だっているだろう。それよりももっと人間関係というものは有機的でエネルギーの高いものである。あたかも分子が激しくスピンし、飛び交い、ミキシンされている状態である。一見カオスでばらばらに見えるものの方がエネルギーは高いのである。