繋がり

誰かと繋がっていたいというのは多分、社会に生きる人間の永遠の願望だろう。
近々自分が死ぬ、と仮定して、僕の墓石の前には何人立つのかという事を最近良く考える。
それは最終的な僕の客観的価値で、僕が知る事は決して出来ない。が、僕が生きている限り最も知りたい事の一つになり続ける。
なぜか。今の僕に友人と呼べるものはいるのか、という疑問を僕は一つのコンプレックスとしてずっと抱えているからだ。
即ち、僕は対人関係、特に友人や親友を作ると行った事に対して全く自信を持てないのであり、またそれを解決できるような手段を今のところ見いだしていない。少なくとも今のところの僕の価値は「宿題を適当に片付けてくれる奴」程度のものではないか、という恐ろしいまでの不安がある。
多分、僕が墓前に立ってほしいと思っている人はきっと、誰一人来てくれないんじゃないか、という思いもある。

僕に決定的に欠けているのは結局のところそういうローレベル(程度が低い、という意味ではない)な事だ。
その不安さ故に必要以上に明るく振る舞う傾向が往々にしてある、故に、「友人」に本音でぶつかる怖さというのを未だに持っている。
本音でぶつかれる、という事が果たして良い事なのか悪い事なのかは分からないが、多分、今よりもさらにキツイだろう。
ただ、そのキツさはきっと最初だけで、長い目で見ればそれは楽になれると考えている。
僕は今のところその対象を「恋人」にしか(しかもごく一部の)向けていない。
逆に言えば、本音でぶつかれる人としか、うまくいかない。
当たり前だという人もいるかもしれないが、そのくせ僕は嘘で塗り固めた恋愛が殆どなのだ。
そして僕はその事に、失恋してからようやく気づく。

嘘というものをよくつくくせに決定的に嘘に対する耐性が低いという最悪の性格を抱えている僕にとっては、今の状況ではそのうち潰れてしまうだろう。
そういう事はいい加減にしておかなければならないだろう。僕は潔癖性なのかもしれないが、僕が一つ克服すべき課題である。

こう言う事を考えている自分は最低なのか、と考えていると思っている事を知られたら最低だと思われるのだろうか、という事を考えている事を知られたら最低だろうか、と思っている事を知られたら・・・・

というコリドーから、いい加減抜け出さなくてはいけない。
それを「誰か」に求めていた節もあるだろうと思うのだ。そういう想いを向けていたのだろうと今更になって考えるのだ。
本気の重いというのはたいてい、後からやって来るものなのだ、という事を改めて認識した。
来月の4日を迎えるにあたって、記す。